原善三郎

生糸貿易で財を築いた明治時代の豪商

原善三郎の肖像画

生糸貿易で財を築いた明治時代の豪商で、横浜の名園・三渓園とも縁の深いことで知られる原善三郎は、神川町の出身です。善三郎は文政10年(1827)4月28日に旧渡瀬村の旧家に生まれ、機業家へ生糸を売買していました。そして横浜開港後2年目の文久元年(1861)、新糸の出回りのとき、はじめて秩父提糸(さげいと)を野沢屋と吉村屋へ出荷することになり、横浜弁天通三丁目の明林堂の裏手に仮住居することになります。後に横浜経済界のリーダー的存在になっていく善三郎の、最初の一歩でした。

翌文久二年末には近くの中村屋という蕎麦屋兼小料理屋の店を買い取り、ここで居留外国商人へ生糸を売り込む仲介人となって開店。間もなく委託販売人となり、慶応元年(1865)には、売込商の代表的存在として横浜第一の生糸売込商となりました。

当時の渡瀬村は、昔から秩父絹を江戸の呉服問屋へ送る中継地点でもありました。このような地で原家が買継商を営んでいたことは、彼が生糸貿易へ進出するに際して、非常に有利な集荷網があったものと考えられます。

明治2年(1869)、善三郎は政府の為替方となり、横浜為替会社の頭取にあげられました。それから4年経った明治6年の生糸改会社には社長の一員に名を連ね、そして翌七年為替会社を改組して第二国立銀行を設立し、頭取となりました。

この間、多数の生糸売込商が横浜開港とともに出店しますが、慶応2年生糸売込仲間に加入した者が131人、しかも明治6年の生糸改会社に加入した売込商33人のうち、17人は、慶応2年の仲間に名を列ねていないので、131人のうち生糸改会社加入者として残っているのは16人だけでした。

生糸の売込量は、競争に打ち勝って上昇した少数の巨大売込商に集中しました。明治2年7月~8月の生糸売込量2923箇(こり)のうち、3分の1以上の1094箇は原・茂木に集中、さらに、明治6年5月17日から同7年5月16日までの1年間における売込量1万5900箇のうち74%余の1万1838箇を上位5人(小野善三郎・原善三郎・三越得右衛門・茂木惣兵衛・吉田幸兵衛)が占めていたのです。

その後、善三郎は神奈川県議会議員、横浜商法会議所頭取などを歴任し、横浜蚕糸貿易商組合の組合長となって貿易商の指導者となります。また横浜最初の市議会議員となって議長、市参事会員に選ばれましたが、明治25年には埼玉県選出の衆議院議員に当選して中央政界へ乗り出しました。明治28年には神奈川県の多額納税者で貴族院議員に選ばれ、同時に横浜商業会議所の初代会頭に挙げられて名実ともに横浜の第一人者となったのです。

そして明治32年2月6日、原善三郎は72年の生涯を閉じることになります。野毛山の邸宅には、珍樹泉石の大邸宅を造り、隣接の茂木別荘と並称される名園とし、渡瀬には天神山と称する別荘を築庭しました。また横浜本牧で山林と田圃を20万平方メートル買収しましたが、ここが後日、三渓園として誕生することとなったのです。

この記事に関する
お問い合わせ先

生涯学習課 文化財担当
〒367-0311
埼玉県児玉郡神川町大字下阿久原1088
電話番号:0274-52-2586