木村九蔵

木村九蔵

日本の蚕糸業発展に限りない業績を残した養蚕改良家

木村九蔵の写真

養蚕改良家として日本の蚕糸業発展に限りない業績を残した木村九蔵は、弘化2年(1845)、神川町に隣接する群馬県藤岡市に生まれました。幼名は高山巳之助といいましたが、慶応3年(1867)、23歳の時に、現在は神川町の一部である旧新宿村の木村勝五郎の後継者となり、姓名も木村九蔵と改めて独立農家として新たな出発をします。その後養蚕業の改良に努め、当時の画期的な飼育法である「温暖飼育法」を発表してたいへんな評価を得ることになります。

木村九蔵と養蚕との結びつきは、少年時代、藤岡市の実家で家事手伝いをしながら蚕を育てることに始まりました。少年の巳之助(後の九蔵)は近所の人から『ばり紙(蚕の成虫である蛾が、卵を生む前に尿をさせておく紙)』をもらって、そこについていた卵を孵化させ、蚕を育て繭をつくったのです。巳之助が13歳の時、雨の多い年で、村では繭の成績が芳しくありませんでした。しかし、巳之助少年が育てた蚕からとった繭は優良で村人を驚かせたのです。その秘密は、火力を用いて保温に努めるという愛情をもって飼育した結果でした。

その後木村九蔵となって独立を果たした後、九蔵はいっそう養蚕の改良に努力して、明治5年(1872)火力を用いて飼育を早くし、日数を短縮して「一派温暖育法」を発表するにいたります。この新しい飼育法を基本にして、九蔵は広く村外各地の養蚕家から学び飼育法の向上に努めました。この九蔵のもとで技術の伝習を受けるために、浦部良太郎や同郷の甥である木村豊太郎が入門するなど、やがて九蔵の自宅が伝習の場と変わっていきます。次第に浦部・木村の二人も九蔵の代理として巡回指導を行えるまでになります。そして明治10年、養蚕業の改良に努めるため養蚕改良競進組を組織して、桑園の管理、桑の品種改良、蚕種改良、蚕室、蚕具の改良などにいたるまで研究を重ね、体制が整うに従って指導を希望する伝習生がますます多くなりました。その後明治17年、競進組を競進社と改め、木村豊太郎、浦部良太郎を副社長にして組織を充実させていきます。

その翌年には東京上野公園で全国大共進会が開かれた際、西郷従道農商務卿から蚕業に尽くした功績により、木村九蔵は功労賞を授与され、さらに明治22年、明治政府はパリ万国博覧会が開催されたのを機会に、九蔵を蚕糸使節としてイタリア、フランスへの洋行を委託しました。その後九蔵は、蚕種保護を指導、正常な孵化には蚕種貯蔵庫の必要性を訴え本庄町(現本庄市)に日本初の蚕種貯蔵庫を設立しました。さらに明治29年には競進社養蚕伝習所の教育内容の改革を行い、明治32年には競進社蚕業学校となりました。これが、現在の児玉白楊高校の前身です。

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